那覇からバスで行く沖縄世界遺産 中城・勝連城編
バックパッカーの強い味方、路線バス。バスを使って沖縄の世界遺産を巡ってみようという企画。
今回は、僕の沖縄世界遺産のおすすめ第四と五位、中城と勝連城を一緒に回ってしまおうという無茶っぷりw
沖縄にある世界遺産のうち、中城城跡と勝連城跡は中部の太平洋側にあり同じ日に行くことができます。なぜこんな近くに大きなグスクが二つもあるのかということは歴史が関係してきます。その物語を少しのぞいてみましょう。
目次
護佐丸と阿麻和利の物語
14世紀沖縄本島は、北山・中山・南山に分かれて争っていました。1400年代初めになると佐敷から出た尚巴志が三山を統一して尚氏王統を打ち立てます。
その尚氏に6代40年余りにわたって支えた重臣に護佐丸がいます。
佐敷から沖縄を統一した尚巴志についてはこちらも参照してください。
那覇からバスで行く沖縄世界遺産 斎場御嶽
護佐丸は恩納村山田の按司の家に生まれました。曾祖父は今帰仁城主でしたが、1322年に北山王帕尼芝(はにじ)に攻め落とされます。
尚巴志が1416年に北山征伐の軍を興すと、有力按司の1人として連合軍に合流し20歳代にして陸路を行く第2軍を任されました。海路を進んだ尚巴志が北山王攀安知(はんあんち/はねじ)と戦っている間に、今帰仁城内で寝返った本部平原に呼応して城内に突入し今帰仁城を攻略します。
尚巴志は今帰仁城主の血を引く護佐丸を北山守護に任命して人心の安定を図ります。臣下からすると「昔の城主様の子孫が帰ってきた」ということになるんでしょうね。
1422年に中山王となった尚巴志ですが、このころまだまだ諸豪族連合の長といった勢力だったようです。
尚巴志は次男の尚忠を北山監守に据えると、護佐丸に座喜味城を作らせて城主とし、北山への押さえとします。この座喜味城で護佐丸は18年を過ごします。
そのころ、勝連城を拠点に茂知附(もちづき)按司が勢力を拡大すると、尚巴志は1430年、中城の地領を護佐丸に与え、築城を命じます。さらに六男の尚布里を江洲、七男の尚泰久を越来(ごえく、現在の沖縄市)に置き、勝連を牽制します。
地図で見ると首里の王府がどう牽制しようとしたかがわかると思います
1439年、尚巴志が逝去し、次男の尚忠が第3代国王となります。この後、4〜6年で次々と王が変わる不安定な時代へ突入するのです。
尚忠の子尚思達が子女無く亡くなると、尚巴志の五男尚金福が後を継ぎます。尚金福には世子の尚志魯が居ましたが叔父の尚布里(尚巴志の六男)と後継を争い双方とも斃れてしまいます。
こうして尚巴志の七男尚泰久が王位につくことになります。こうなると、勝連への備えであったはずの江洲・越来は尚氏の一族が去り中城の護佐丸だけが残る形になってしまうのです。
そのころ勝連では、暴君の茂知附按司をクーデターで倒した阿麻和利が勢力を誇っていました。王位についた尚泰久は長女の百度踏揚(ももとふみあがり)を降嫁させ、懐柔を計ります。
阿麻和利に対抗するため護佐丸が軍備を整えると、これを阿麻和利が護佐丸に謀反の動きありと王府に讒言します。尚泰久王は阿麻和利に中城城を包囲させると、王府軍と聞いた護佐丸は反撃せず、忠誠を示すため自害したと伝えられています。
護佐丸を排した阿麻和利は首里を攻めようとするも、百度踏揚が勝連城を脱出して王府に急を告げ、阿麻和利は王府軍によって攻め滅ぼされます。
しかし、忠臣とされた護佐丸の娘は尚泰久王の正室で男児2人が居たにも関わらず、王位を継承できず追放されているなど不可解な点も多く、尚泰久によって引き上げられた金丸(後の第二尚氏の始祖尚円)の謀略ではないかと考える説もあります。
このように人間くさく、ロマンあふれる物語が沖縄にあったことは世界遺産巡りをして初めて知りました。資料の少ない頃のことなので確かなことはわかりませんが、当時に思いを馳せるとグスク巡りが一層楽しくなります。
中城城跡へのアクセス
沖縄にある世界遺産のうちで、中城城跡が一番アクセスが難しいです。何故なら最寄りに〇〇前というバス停の設定がないのです。
そこで今回は、ふもとの中城村の太平洋側の国道を通るバスを使い、散策しながら北側に抜けるルートをご紹介します。
東陽バス30番泡瀬東線 那覇バスターミナル発
県庁北口→久茂地公民館前 美栄橋前 牧志公園前 牧志駅前を通ります。国際通りに泊まっている方はこのどれかを使いましょう。
添石のバス停前から歩いて2-30分坂を上がると中城城跡です!詳しくは次の中城城跡の歩き方をご覧ください。
中城城跡の歩き方
距離5.6km
最大標高差148m
予想徒歩:1時間強(見学時間含まず)
軽いトレッキングですね(^^; 歩きやすい靴、日除け、水分などを準備してのぞんでください。
まずは添石バス停で下車し 中城城跡入口までが2.0km、想定徒歩時間25分ほどです。
中城城跡
中城は護佐丸・阿麻和利の乱ののちは王族の支配地となります。第二尚氏の時代には世子の採地となって間切番所(地方役場)が中城城内におかれました。
明治になって琉球処分の後には中城村役場・中城小学校が城内に置かれています。
放置されたグスクの中には建設資材として石が持ち去られたりしたものもあったようですが、中城城跡は番所として利用されたためそのようなこともなく当時の遺構をよく残しています。
沖縄戦で置かれていた役場・小学校は焼失し、今は麓の太平洋側に移っています。
ここまでの登り坂からわかるように、丘陵を使った山城で6つの郭からなる連郭式城郭となっています。中城城跡は入場料がかかりますので、管理事務所の側から入りましょう。
グスクからは太平洋側の絶景を眺めることができます。
中城城跡を出た後は、北に向かい北中城村に入り、中村家住宅を目指します。
中村家住宅
中村家は護佐丸が座喜味から中城に移った際にともに移り、豪農として明治を迎えます。沖縄戦でも大きな被害に遭わず、沖縄の古い様式を今に伝える数少ない建築物です。
中村家住宅を出た後は、更に北に向かい、仲順バス停を目指します。
中城城跡から勝連城跡までの行き方
仲順バス停からは那覇に戻る便の外、勝連城にそのまま向かえる52番・61番線が通っています。52番、61番どちらでも勝連城跡前を通ります。
仲順バス停時刻表(屋慶名バスターミナル(終点) 行き) -バスなび沖縄提供
仲順バス停から勝連城跡前までは約30分、勝連城跡前につきます。本数は1-2本/時間しかないので注意しましょう。
勝連城跡
勝連城は道の反対側に公設の休憩所が設けられています。無料の駐車場・休憩所・観光案内・物産店などが入っています。
勝連城は急峻な地形を利用した山城です。入ってすぐ急な坂道となります。休憩所ではハイヒールの方用にサンダルを無料で貸し出しているそうです(^^;
連郭式城郭となっており、一の郭から三の郭まであります。一の郭にはタマノミウジ御嶽があり、城内にはいくつかのガー(井戸)があります。グスクが城であるとともに、祈りの場所でもあったことがわかります。
うるま市公式サイト提供のyoutube動画
詳細は公式サイトの案内をご覧ください。
勝連城跡から那覇方面へのアクセス
52番系統を使う
52番系統で直接那覇方面に戻ることができます。1時間に2本程度です。
日に数本ですが牧志経由があります。
国際通り→牧志→安里→崇元寺→泊高橋→上之屋という経路を取ります。
泊高橋は58号線経由と国際通り経由の路線で離れているので、合流・分岐点は実質、上之屋です。ご注意ください。
西原バス停まで歩き、27番屋慶名線もしくは52番与勝線を使う
歩いて10分ほど先にある西原バス停からも那覇に向けてバスが出ています。
こちらのバス停は52番与勝線も通る路線なので、こちらまで行ってバスを待つという手も有ります。
いずれの路線も20時前には那覇行きが終わりますので注意してください。
まとめ
バスを使っても一日あれば、壮大なグスク・海を臨む絶景・世界遺産を彩る歴史ロマン・古い沖縄の暮らしなどを知ることができる充実した旅をすることができます。
観光地化されたスポットとは一味違う旅をしてみてはいかがでしょうか。
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